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東京地方裁判所 昭和51年(ワ)1232号 判決

原告

稲村正治

右訴訟代理人

竹田章治

被告

一本静子

外二名

右法定代理人親権者母

一本静子

右三名訴訟代理人

高田利広

小海正勝

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告一本静子、同一本恵理子及び同一本敦子は、原告に対し、それぞれ金二四五万七六六六円及び内金二〇七万一六六六円に対する昭和五〇年三月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行の宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張〈以下、省略〉

理由

一原告が訴外会社に勤務するものであること、貞明が外科の開業医であつたが、同人は昭和五一年一二月二八日死亡したので、その権利義務を被告ら三名が各三分の一の割合で承継したことは当事者間に争いがない。

二原告は、昭和五〇年三月五日午後五時三〇分ころ、訴外会社に勤務中の事故により左ひとさし指先端約一センチメートル(第一関節よりやや上の部分)を切断したので、同日午後六時一〇分ころ貞明の診療を受け、以後同年三月二九日まで二一回にわたり診療を受けたことは当事者間に争いがない。

三原告は、貞明が原告との間の準委任契約に基づき開業医として要求される臨床医学上の知識、技術を駆使して適切な診療をすべき債務を負つているにもかかわらず、これを怠り、診療にあたり化膿防止措置を怠り、更には化膿悪化を見過ごしたため、左手ひとさし指全部の切断を余儀なくされた旨主張するので、先ず貞明が開業医として要求される診療行為を怠つたか否かについて判断する。

1  手指の切断創に関する治療上の原則については、鑑定人中川自夫の鑑定の結果によれば、手指が切断した場合の処置にあたつて重要なことは、指としての機能を出来るだけ温存するため、指の長さをできるだけ残すように努力すること、創の化膿を防ぐ処置を十分に行なつて創面を健康な皮膚で被覆し、閉鎖しなくてはならないということである。具体的には止血、麻酔についで創の感染を予防し、創の一期癒合をはかるために最も重要な創の新鮮化操作及び消毒を行なうことである。更に創内の汚染、異物がある場合にはこれに対する処置も行なう。創の新鮮化操作はまず壊死におちいると思われる組織は切除し、骨端が創面に露出していると一次閉鎖が出来ないか、又は出来ても創の汚染をおこす危険が大きいので創縁縫合に際し緊張がかからないように切除する必要がある。創閉鎖の操作は皮膚欠損が少ない場合は指背と指腹を縫合し、創断端を被覆し、皮膚欠損が大きい場合は有茎又は遊離皮膚移殖術を行なう。創縫合後に局所にヨードチンキ、イソジンを塗布し、減菌ガーゼをして包帯し、さらに創の感染予防の補助手段として、なるべく抗菌スペクトルの広い抗生物質を投与する。又浮腫予防として抗浮腫剤を投与し、患部の高挙安静をすすめ、アルコール飲料の摂取を禁ずる等の生活指導を行ない、帰宅後服用のため鎮痛剤の内服投与をして帰宅させる。

以上の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

2  貞明の診療行為について

〈証拠〉を総合すれば、次の事実が認められる。

昭和五〇年三月五日原告が初めて貞明の診療を受けたとき、創は左のひとさし指の爪の根本より先端が欠損して第三指骨が飛び出しており、若干の出血が認められた。原告は貞明の治療を受ける前に訴外会社の医務室において、応急処置として看護婦よりリバガーゼによる消毒を受けたが、なお創面は油で汚染されていたので、貞明はマーキユロとアルコールでまず創面の消毒をし、ノボカインの麻酔注射を指の根本にした後に再度マーキユロとアルコールで消毒したうえ、飛び出している指骨を先端の第三指骨の一部だけ残して削り、また露出している汚染した肉などを切り取り、更に、残つた皮膚が合わせられるかどうかを検討しながら中の筋や肉を切り、皮膚を合わせて縫合し、いわゆる断端形成術を完了した。そして化膿防止のためクロマイゾル(抗生物質)一グラムを注射し、更に、ペンプリチン(抗生物質)二五〇ミリグラムを一日六錠宛三日分内服投与し、その際に安静にし、患部を氷で冷やすように指示した。

同月六日、七日及び八日、貞明はマーキユロ塗布、ガーゼ包帯交換及び化膿防止のためクロマイゾル一グラムの注射をし、同月八日には同じくペンプリチン二五〇ミリグラムを一日六錠宛四日分内服投与した

同月一〇日、貞明はガーゼ交換、マーキユロ塗布のほか、指に腫れがきていたので消炎酵素剤のキモタブ一日六錠宛を一週間分、前記ペンプリチンと併合して内服投与した。一〇日夜、原告は患部がかなり痛んだので、同月五日に投与されていた鎮痛剤を服用した。

同月一一日、貞明は抜糸をした。同月一二日から二二日までの間に原告は九回通院し、貞明は消毒、ガーゼ交換等の治療をし、そのほかに一四日にはペンプリチン二五〇ミリグラムを一日六錠宛四日分内服投与し、二〇日には化膿防止のため同じく抗生物質であるエリスロマイシン二〇〇ミリグラムを一日六錠宛四日分内服投与した。また一七日と一九日には、薬等で消毒したため皮がむけてきたので、貞明はこれをハサミで切り取つた。

原告は化膿防止のために投与された内服薬を指示通り服用しなかつたり、同月二一日には車を運転して旅行するなどして安静を欠いたこともあつて、同月二四日ころから患部が化膿し出したので、同日及び二五日に通院した。貞明は消毒、ガーゼ交換等の治療をしたほか、二五日には化膿防止のためエリスロマイシン二〇〇ミリグラムを一日六錠宛四日分内服投与した。

同月二六日には左ひとさし指腹部の第二骨髄面が発赤腫脹してきたほか、波動(触診で皮膚の一方を押えると波打つという感じ。)が認められたので、貞明は化膿したものと判断し、直ちに麻酔をかけて発赤腫脹部分二か所を切開して膿を出し、切開後は排膿が容易であるようにガーゼドレーンのそう入をし、グレラン(鎮痛剤)を投与した。原告は右手術後、手術部に激しい痛みを覚え、鎮痛剤を飲んで寝たところ、痛みはおさまつてきたが、身体がだるくなり、頭痛がして手のひらに圧迫感を感じたので不安になり、同日午後七時ころ、再び通院したところ、貞明は診察し、包帯を交換した(同月二六日貞明が二か所を切開して膿を出したこと、同日午後七時ころ、原告が再度診療を受けたことは当事者間に争いがない。)。

同月二七日、原告が発熱と頭痛を訴えたので診察したところ、咽頭発赤の症状もあつたため、貞明は感冒症候群と認め、二五パーセントサンピリン(下熱、鎮痛剤)二シーシーの注射をしたうえ、スルピリン(下熱剤)、メトロン(抗ヒスタミン剤)、フスタギン(せきどめ)を三日分内服投与し、指の方は消毒、ガーゼ交換をした(同月二七日貞明が消毒とガーゼ交換をしたことは当事者間に争いがない。)。

同月二八日、ひとさし指の根部附近の手背から腫れと痛みがきたため、貞明は消毒、ガーゼ交換のほか、化膿防止のための抗生物質であるカネンドマイシン二〇〇ミリグラムを注射し、また、感冒に対しては二五パーセントサンピリン二シーシーを注射した。同月二九日も前日と同様の注射がされた。しかし、原告は創が治癒しないため、訴外会社とも相談した結果、関東労災病院で診療を受けることとなり、同日午後五時ころ、同病院の整形外科で診療を受け、同月三一日同病院に入院して手掌部切開、第二関節下部分から切断の手術を受けたが、同年四月一八日再手術により左手ひとさし指全部を切断し、同年五月一〇日に退院した。

以上の事実が認められ、原告及び承継被告各本人尋問の結果中右認定に反する部分は、前顕証拠に照らしてたやすく信用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

3  前記1及び2の事実に加え、鑑定人中川自夫の鑑定結果及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の事実が認められる。

貞明は原告の左ひとさし指の機能をできるだけ温存するため、指の長さをできるだけ残すように努力したこと、手術前には感染予防のため二回にわたりマーキユロ及びアルコールで消毒したこと、しかしいかなる消毒をしても細菌の残存が避けがたいため、感染予防のためできるだけ広い抗菌スペクタルをもつ抗生物質の投与が必要であつたこと、そのため貞明は手術後もクロマイゾルの注射を四日間、ペンプリチンの内服投与を一一日間併用し、それでもなお化膿しはじめたことを知るや、薬剤耐性菌の発生を予測し、更に従来のとは異なる化膿防止剤であるエリスロマイシンを三月二〇日より八日間内服投与し、治療の度にはガーゼ交換及びマーキユロ消毒をしていたこと、また、左ひとさし指の第二指骨面が発赤腫脹し、波動が認められるや、直ちに切開排膿してガーゼドレーンをそう入し、その後もガーゼ交換及び消毒をし、更にひとさし指の根部附近の手背から腫れと痛みがきたときには化膿防止のためカネンドマイシンを注射していること、貞明のした手術、その前後の消毒及び手術後の感染予防ないし化膿防止のための措置が医師として適切な処置であつたこと。

以上の事実が認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右認定事実によれば、貞明は医師として要求される最善をつくして原告の診療に当つたものであると認めるのが相当である。

そうすると、貞明が診療行為を怠つたことを前提とする原告の前記主張は採用することができない。《以下、省略》

(古館清吾)

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